書きかけのブログエントリー

 消すのも何なんで、貼り付ける。

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 表題のとおりなんだけど、こんな記事を見たんですよ。

ネイチャー誌の最新号の中で、米心理学者のディーン・ケイス・サイモントンは"現代科学は発想の転換をするよりも、すでに分かっていることを基礎にしているだけだ。"と語った。この世から天才は一掃されてしまったのか?これまでの考えを根底から覆すような第2のコペルニクスダーウィン、そしてアインシュタインは今後現れないのか?

何故現代は、天才がいなくなってしまったのか? : カラパイア

 彼の文脈にそって、「天才」がいなくなってしまった理由を言うならば、科学が発展し、知が細分化していく中で分野を横断するような研究/発見をする人が減ってしまったから、というのが挙げられるだろう。細分化によって、分野内の人ですらその業績を評価することが難しくなってしまったというのもあるかもしれない。

 でもまあ、元記事に反論するならば、筆者の視野が狭いだけではないかとも思う。世間の耳目を集めないだけで、もしくは周りが評価を下せないだけで、科学分野に「天才」はそれなりにいると思っている。筆者の文脈にそって、現代人で天才というなら、テレンス・タオなんか天才の部類だろう(参考)。

 「天才」って言葉ほど捉えどころのない言葉も無い。「天才」は社会が決めるものだと思っている。社会が決めるという点では、「美人」と似ていると思う。社会の要請によって、その価値が決まるものなので、個人がどうこう決められるものではないと思うし、時が経たないと「天才」であるかどうかが分からないこともある。

 ただ、まあ世に「天才」といわれる人たちの思考というものを想像することはある。一般に人は、周囲から評価されるようなことをする。これは人の常であり、現代風に言うなら戦略だ。でも天才は違う。まず先に自分のやりたいことをする。そして、それが周囲に評価される(ことが多いように思う)。

 人と違うことを情熱を持ってやり続ける。これは一種の狂気だと思う。こうした狂気はクリエイティブな仕事によく見られる。孤独に耐えることが研究者にとって大事なことの1つと常々言っているんだが、まさにこれが「天才」の狂気性に当てはまるだろう。そういう意味では研究者は皆「天才」に肉薄している。さらに言えば、孤独に耐えられない人は、その人の天才性から遠ざかっていくのだろうと思う。